きっかけ「第二話」

第2話始めます。

私が福島で生きる道しるべが欲しかった理由。

それはここで生きて行って大丈夫なんだろうかという迷い。
そして、ここで生きていきたいという想い。
その両方でぐらぐらしていたからでした。

2回目の水素爆発の翌日、私は会社から関東圏内への避難指示を受けました。
会社から指示が出るなんてただ事ではないと思いました。

でも、同じ県内に住む家族のことを思うととても決断できませんでした。


うちの実家は、原発から60~70キロ地点で300頭余りの乳牛を飼育しています。
父が若い時、たった数頭の牛から私たちを大きく育ててくれました。

そして今から7年前、家を継ぐと決めた弟の為に、今の牛舎まで大きくしてくれました。

牛舎を建てるとき、家族みんなで木を運んだり木の皮を剥いだり、

辛かったけど家族の絆が深まった、今でも大切な思い出です。


そんな家族を残して自分だけ避難なんてできない。
迷いながらも会社にお願いして実家で待機させてもらうことにしました。


でも日増しに状況が悪化する原発の様子に不安で不安でたまらなくなりました。
トラックをいっぱい頼んで北海道に避難しようよって無茶なお願いをしたりしました。
そんな決断なんかできるはずもないんだけど。
工場が被災していたので、絞った牛乳は回収できず捨てたり配ったり。


実家にいれば忙しくて不安になっている暇がないといった感じでしたが、

一向に目途のたたない原発ニュースやガソリン不足は今思い出せば、

長い長い戦いの始まりでした。


このまま自宅待機をいつまでも続けていて復帰できるのだろうか、

今後の相談で会社に電話を入れたところ、暫くの間、

宇都宮で働くことを提案してくれました。


こんなに頑張ってる家族を置いて自分だけ離れる。


とても迷いましたが、忙しい中、ガソリンを探して来て「行け」と言ってくれた父。
本当にありがたかった。感謝の気持ちと申し訳ない気持ち。
自分も大変なくせに。毎日牛乳捨てたり引き取り先を探したり。
本当にごめんなさい。自分だけ逃げて。
本当に本当にごめんなさい。


私は、一度大好きな家族のもと、そして大好きな福島を離れました。

そして宇都宮のホテルで、牛乳の放射性物質基準値超えと

県内全ての出荷制限のニュースを聞いたのでした。


父の顔、母の顔、弟たちの顔が浮かんで実家に帰りたいと思いました。
私が帰っても何もできないのだけど、それでも近くにいたい。
私は2週間の避難生活の末、福島へと戻りました。


「今までどんな苦労も乗り越えて来たけど、放射能には勝てない」父の言葉。


今までお金がなくても希望はあった。
でも今は希望が見えない。

そんな日々の中で私は福島で生きる希望が、道しるべが欲しかった。
でも探せば探すほど希望なんか見つからなくて。
不安な情報ばっかりで。


背中を押してくれるのはあの猪苗代湖ズの「明日から何かが始まるよ、君のことだよ」
その何かをずっとずっと探して箭内さんのトークショーにつながったのでした。

                            3話につづく

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